自分の人生
自分の人生を誰か他の人が代わって生きることはできません。「私の人生」は、結局、「自分」で生きるのであって、それは自分が「食べる」ことを、他の人が代わってすることはできないのと同じです。人生の道のりで「私」が眼にした風景、楽しくもあり悲しくもあった日々の想い出、懐かしい声、肌と肌をすり寄せた時の身体のぬくもり、どれもこれも「私自身」の経験としてあり、それ以外には存在しません。総じて「私の人生」は、自分で生きる他はなく、ひとつひとつの経験をどう受け止めて意味をかみしめてゆくか、それは「自分」の事柄です。言い換えれば、自分の生の意味をどう解釈していくか、生きる意味をどう考えるか、存在の意味と解釈は自分に託されています。
人の人生は互いに交差し、共有されています。愛する人が、想い出に残る人が私の人生のかけがえのない部分となって、私の心の中に住んでいます。同じように、私の人生は、他の誰かの人生の大切な一部となり、「私」はその人の心に住みます。「あなたが私の中に在り、私があなたの中に在る」という神秘的な共存共有が人生の妙です。
自分を見つめふりかえるとき、「自分とは何か? 人生とは何か? 生とは? 死とは?」とめくるめく問いのループが、水面に静かに広がる波紋のようにあらわれ「私」をとりまきます。とらえ方次第で、暖かくも冷たくもなる「私の生」であることを思えば、思索の大切さを納得していただけると思います。
暗闇の中でこそささやかな光も灯火になりうるように、死を思えば生を深く考えざるを得ず、苦悩の中にあればこそひとつの示唆が生の意味を転換することすらあります。人生の総量は肉体の年齢ではなく、わずかな時の質と深さ、その積み重ねにあるとこと思えば、ものの見方はかけがえのないものであると言わざるを得ません。
人の人生は互いに交差し、共有されています。愛する人が、想い出に残る人が私の人生のかけがえのない部分となって、私の心の中に住んでいます。同じように、私の人生は、他の誰かの人生の大切な一部となり、「私」はその人の心に住みます。「あなたが私の中に在り、私があなたの中に在る」という神秘的な共存共有が人生の妙です。
自分を見つめふりかえるとき、「自分とは何か? 人生とは何か? 生とは? 死とは?」とめくるめく問いのループが、水面に静かに広がる波紋のようにあらわれ「私」をとりまきます。とらえ方次第で、暖かくも冷たくもなる「私の生」であることを思えば、思索の大切さを納得していただけると思います。
暗闇の中でこそささやかな光も灯火になりうるように、死を思えば生を深く考えざるを得ず、苦悩の中にあればこそひとつの示唆が生の意味を転換することすらあります。人生の総量は肉体の年齢ではなく、わずかな時の質と深さ、その積み重ねにあるとこと思えば、ものの見方はかけがえのないものであると言わざるを得ません。
哲学とは何か?
「哲学とは何か?」 これは大問題です。(はじめからこれでは先が思いやられますねえ) それは哲学者によって答えが違うからです。哲学ですべきことは何か? 何が大切なことか? 人によって見解が異なります。西洋哲学をとっても大きくふたつに分かれています。
分析哲学(Analytic philosophy; 米英など英語圏では主流です)の人は、「言語分析」だと答えます。私たちは言語を使って考え、言語で表現します。結局、思想は言語によって成り立っています。(では使っている言語が違えば思考も違うのかとか、言語以外の思考もあるだろうとか、そういう難しい問題は、言語の問題を扱うときに論じます。今は、素直にしていてくださいね) そこから、言葉をどういう意味で使い、何を言わんとしているのか言語を分析していけば思惟が明快になる。哲学者が言っているわけのわからない言葉をはっきりさせて、すっきりさせよう。贅肉をとってスリムにね、という感じです。
私がアメリカで最初に行ったのが、ニューヨーク市立大学大学院でした。アメリカはどこも分析哲学が主流で、そこもそうでした。プラトンの授業です。教授がプラトンの『国家』の一節を分析し、その論点を数理論理学の記号を用いて表します。修辞的な(rethorical) 部分をそぎ落とし、その論点だけ(魚で言えば骨だけ) を明確にして、プラトン先生が何を言いたいのかはっきりさせるわけです。矛盾(contradiction) がないか, 循環論法(circular argument) はないか、突き詰めます。プラトンよ、これでもか、これでもかという風に格闘技のように締め付けます。
プラトンのありがたい教えにひたってゆーらゆら、という甘いことはダメ。きびしいのです。そんな感じで、論理学(logic)や数理論理学 (mathematical logic)を使って、全ての哲学者をなで斬りにする、それが分析哲学です。気持ちがいいですか? すっきりして「これぞ哲学」という人もいれば、いや「歴史的背景とか、もっと含蓄のあるものが欲しいな」という人もいます。つまりすっきりダイエット派もあれば、スルメが奥歯にひっかかりながらも噛み続けるスルメ派もいます(スルメ派については次に説明)。簡単にいえば、哲学を「論理的、分析的に思考できるようにする訓練」と考えるのが分析哲学です。だから、アメリカではどこの大学でもCritical Thinking (批判的思考)の科目があり、よく必須になったりします。アメリカ人の分析能力が高いのは、英語で考えているからという面もあると思います。日本語や韓国語などの言語は情緒的で、味わい深いのですが、論理的な思考を表現するにはむいていません。東洋人の分析能力が低いとは思いませんが(自分が日本人だからです、エヘン)、論理をはっきりさせるには不向きな言語です。
分析哲学と逆なのが大陸哲学(Continental philosophy; ヨーロッパ大陸の哲学という意味で、日本でいう哲学はこれ)です。その人達はこう考えます。
哲学は、先人が開拓した道(あっちに行ったりこっちに来たりで、道は袋小路あり、崖に落ちたりで、尋常ではないのですが、ともかく)の総体であり、そのいろいろな道を学ぶのが哲学だ、というわけです。現象学とか、構造主義とか皆、ここに入ります。簡単に言えば、哲学は歴史的に開拓された思索の総体ということですから、「哲学を学ぶ=哲学史を学ぶ」となります。
西洋哲学 (Western Philosophy)は、このように二つに分裂しています。ちなみに私は、一年分析哲学に「耐えた」(?)のですが、Continental Philosophy をやる数少ない大学院であるNew School for Social Research (現 New School University) に転向しました。ナチスを逃れたユダヤ人が創った大学で現象学、批判理論(critical theory)のメッカでした。スルメを噛むように、カントやハイデッガーを何回も何回も読みました。歯に引っかけながら。
西洋哲学は大きく分けるとふたつ、細かく分けるとその中でまた分かれますので、「哲学とは何か?」といえばいろいろな答えが返ってきて、ひとつにはまとまらないということです。ちなみ2000年頃ですか、アメリカ哲学会で議論になって、結局「哲学とは、哲学者がやること」という循環論法(circular argument)のような非論理的な答えで落ち着くしかなかったようです(といってもこれしかないよね)。
哲学は混沌状態だから、「やーめた。もうお気軽人生で行くわ!」という即断はお待ちください。「そんな整理がつかない状態で、困ったもんだ。それがだいたい俺の人生とどうかかわりがあるんだ? 俺にとって大事なのは俺の人生であって、哲学の問題は、職業的哲学者にまかせとけ!けしからん!」 これが次のテーマです。つまり「なぜ、人は哲学的な思索をするべきか」ということです。 「自分の人生は、自分にしか生きられない」(直訳すると I am the only person who can live "my life." となりますが、英語としてはわけの分からない表現になりますので、I am in charge of my life. 「私の人生は私がになっている」とします) というタイトルで考えます。
分析哲学(Analytic philosophy; 米英など英語圏では主流です)の人は、「言語分析」だと答えます。私たちは言語を使って考え、言語で表現します。結局、思想は言語によって成り立っています。(では使っている言語が違えば思考も違うのかとか、言語以外の思考もあるだろうとか、そういう難しい問題は、言語の問題を扱うときに論じます。今は、素直にしていてくださいね) そこから、言葉をどういう意味で使い、何を言わんとしているのか言語を分析していけば思惟が明快になる。哲学者が言っているわけのわからない言葉をはっきりさせて、すっきりさせよう。贅肉をとってスリムにね、という感じです。
私がアメリカで最初に行ったのが、ニューヨーク市立大学大学院でした。アメリカはどこも分析哲学が主流で、そこもそうでした。プラトンの授業です。教授がプラトンの『国家』の一節を分析し、その論点を数理論理学の記号を用いて表します。修辞的な(rethorical) 部分をそぎ落とし、その論点だけ(魚で言えば骨だけ) を明確にして、プラトン先生が何を言いたいのかはっきりさせるわけです。矛盾(contradiction) がないか, 循環論法(circular argument) はないか、突き詰めます。プラトンよ、これでもか、これでもかという風に格闘技のように締め付けます。
プラトンのありがたい教えにひたってゆーらゆら、という甘いことはダメ。きびしいのです。そんな感じで、論理学(logic)や数理論理学 (mathematical logic)を使って、全ての哲学者をなで斬りにする、それが分析哲学です。気持ちがいいですか? すっきりして「これぞ哲学」という人もいれば、いや「歴史的背景とか、もっと含蓄のあるものが欲しいな」という人もいます。つまりすっきりダイエット派もあれば、スルメが奥歯にひっかかりながらも噛み続けるスルメ派もいます(スルメ派については次に説明)。簡単にいえば、哲学を「論理的、分析的に思考できるようにする訓練」と考えるのが分析哲学です。だから、アメリカではどこの大学でもCritical Thinking (批判的思考)の科目があり、よく必須になったりします。アメリカ人の分析能力が高いのは、英語で考えているからという面もあると思います。日本語や韓国語などの言語は情緒的で、味わい深いのですが、論理的な思考を表現するにはむいていません。東洋人の分析能力が低いとは思いませんが(自分が日本人だからです、エヘン)、論理をはっきりさせるには不向きな言語です。
分析哲学と逆なのが大陸哲学(Continental philosophy; ヨーロッパ大陸の哲学という意味で、日本でいう哲学はこれ)です。その人達はこう考えます。
哲学は、先人が開拓した道(あっちに行ったりこっちに来たりで、道は袋小路あり、崖に落ちたりで、尋常ではないのですが、ともかく)の総体であり、そのいろいろな道を学ぶのが哲学だ、というわけです。現象学とか、構造主義とか皆、ここに入ります。簡単に言えば、哲学は歴史的に開拓された思索の総体ということですから、「哲学を学ぶ=哲学史を学ぶ」となります。
西洋哲学 (Western Philosophy)は、このように二つに分裂しています。ちなみに私は、一年分析哲学に「耐えた」(?)のですが、Continental Philosophy をやる数少ない大学院であるNew School for Social Research (現 New School University) に転向しました。ナチスを逃れたユダヤ人が創った大学で現象学、批判理論(critical theory)のメッカでした。スルメを噛むように、カントやハイデッガーを何回も何回も読みました。歯に引っかけながら。
西洋哲学は大きく分けるとふたつ、細かく分けるとその中でまた分かれますので、「哲学とは何か?」といえばいろいろな答えが返ってきて、ひとつにはまとまらないということです。ちなみ2000年頃ですか、アメリカ哲学会で議論になって、結局「哲学とは、哲学者がやること」という循環論法(circular argument)のような非論理的な答えで落ち着くしかなかったようです(といってもこれしかないよね)。
哲学は混沌状態だから、「やーめた。もうお気軽人生で行くわ!」という即断はお待ちください。「そんな整理がつかない状態で、困ったもんだ。それがだいたい俺の人生とどうかかわりがあるんだ? 俺にとって大事なのは俺の人生であって、哲学の問題は、職業的哲学者にまかせとけ!けしからん!」 これが次のテーマです。つまり「なぜ、人は哲学的な思索をするべきか」ということです。 「自分の人生は、自分にしか生きられない」(直訳すると I am the only person who can live "my life." となりますが、英語としてはわけの分からない表現になりますので、I am in charge of my life. 「私の人生は私がになっている」とします) というタイトルで考えます。
はじめに
人生はこれといった解答もなく、その問いを持ってゆくところすらありません。 ふと出会った「解答」らしきものも根拠が乏しく、確たる指針とはならないことが多く、人は悩みの果てに「死」すら思うことがあります。
自分が生きている意味や価値などの人生の問いが心に立ちのぼって、もう前に進めなくなる青年の生。 死が現実となりつつある老人の境涯。 あらゆる生の苦闘を乗り越えてきたはずの壮年の生。 人生の問いは人を選ばず、時を待たず、生あるものの前に立ちはだかります。
避けて通れないが、しかし確とした答えのない問いに、その生涯を費やした哲学者の群れ。 その思索から示唆を得て、自分自身の生きる道を見いだしていただければと思います。 他の人は誰も、それがどんなに愛する人であったとしても、自分の代わりに「自分」の人生を生きることはできません。 自分の足で自分の生を、一歩また一歩と踏みしめてゆく。 つらくても、時にどんなに残酷であってもその真実を変えることはできません。 だからこそ自分の人生は、「自分で」考えなければならないし、先人の思索がその踏み台になればと思います。
悲しみや苦しみで、ふと立ち止まった時、君がここから何かの示唆を得られることを願ってこのノートを綴ります。
時には軽く空を舞うように、時にはじっくり地をはうように 、テーマによってスタイルを変えて書きます。
自分が生きている意味や価値などの人生の問いが心に立ちのぼって、もう前に進めなくなる青年の生。 死が現実となりつつある老人の境涯。 あらゆる生の苦闘を乗り越えてきたはずの壮年の生。 人生の問いは人を選ばず、時を待たず、生あるものの前に立ちはだかります。
避けて通れないが、しかし確とした答えのない問いに、その生涯を費やした哲学者の群れ。 その思索から示唆を得て、自分自身の生きる道を見いだしていただければと思います。 他の人は誰も、それがどんなに愛する人であったとしても、自分の代わりに「自分」の人生を生きることはできません。 自分の足で自分の生を、一歩また一歩と踏みしめてゆく。 つらくても、時にどんなに残酷であってもその真実を変えることはできません。 だからこそ自分の人生は、「自分で」考えなければならないし、先人の思索がその踏み台になればと思います。
悲しみや苦しみで、ふと立ち止まった時、君がここから何かの示唆を得られることを願ってこのノートを綴ります。
時には軽く空を舞うように、時にはじっくり地をはうように 、テーマによってスタイルを変えて書きます。


